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【山本勇輝さんインタビュー後記】デンマークのフォルケホイスコーレから見た「人」の育ち方

このインタビュー後記では、ノーフュンスホイスコーレで先生として働く山本勇輝さんにインタビューをさせて頂いた後、わたしたちがどう感じたかを語りあったものです。ゆうきさんのインタビュー記事本編はこちら

インタビュー後 素敵な庭園で記念撮影


(メンバー:黒住 奈生、能條 桃子、瀧澤 千花、高槻 祐圭/実施日:2019年5月19日/編集:高槻 祐圭)

「無関心にはなれても無関係にはなれない」

じゃあさっそく後記を始めようか。
ゆうきさんへのインタビューを通じてどう思いました?一番印象に残ってることはある?
民主主義の話が面白かったかな。「無関心にはなれても無関係にはなれない」っていう話があったじゃん、昨日のマティアス君もそんなことを言っていたような気がしていて。
結局政治って生きてたら絶対関わってくるよね、みたいなね。
’じぶんごと’にならない、無関心になってしまうのは多様性に触れる機会が無いからで、例えば普段関心が無くても移民や難民の人と出会えば’じぶんごと’になるんじゃないかっていうのがゆうきさんの視点だったよね。
「多様性」っていうのが、’じぶんごと’を広げるための、ゆうきさんが選んだひとつのアプローチって感じだったね。
多様性の文脈でいうと、デンマーク人にとってフォルケホイスコーレ(以下 フォルケ)って多様性と出会う場として機能しているのかもって思った。わたしたちはデンマークのフォルケを見るときに日本人にとってのフォルケとして考えてしまいがちだけど、ゆうきさんはデンマーク人にとってのフォルケも見ているんじゃないかな。
 デンマーク人にとって、フォルケって今まで以上に海外の人と出会う場で、初めて長期共同生活をしたり、ギャップイヤーとして何か変化を求めに来る場所なのかも。多様性を感じているのは日本人だけじゃなくてデンマーク人もそうなんじゃないかな。
 ゆうきさんは日本でフォルケを創ろうとしているけど、日本で創るなら日本人がネイティブとしてのフォルケになるじゃん。つまりそれってデンマーク人にとってのデンマークのフォルケと同じで。そういう視点から見るのも大事だなと思った。
多様性って国籍で考えがちだけど、それだけじゃなくて同い年でも同じ性別でも一人一人違うじゃん。そういうのもゆうきさんは多様性の文脈で理解してるなって思って、そうだよなって思った。実際にフォルケで生活してみて、本当の意味で他人のことを理解するのって難しいなと再認識したし。頭ではわかっていたけど、頭でしかわかっていなかったなというか。

民主主義は「異質」なもの?

民主主義はもともと日本にとって異質なものだっていう話もしたね。
そうそう、それ面白かった。日本で民主主義がうまくいってないってことにばっかり目がいってたけど、「じゃあ、なぜうまくいっていないのか?」っていう視点はなかったな。
そうだよね、昨日(マティアス君のインタビュー後)も何でうまくいかないんだろうっていう話にはなったもんね。

それこそ、民主主義って日本の内側から生まれたものじゃないんだもんね。
人権意識とかもそうだよね。わたしたちが勝ち取ったものじゃない。日本が下から、内側から勝ち取ったものって何だろうっていう話も昨日の晩にしたよね(笑)、それと繋がりそう。
勝ち取った…。そういう成功体験、思いつくもの無いよね。

日本でフォルケホイスコーレを創るとは…?

日本でフォルケを創るっていう話と、そこへのゆうきさんの想いも印象に残ってるかな。「フォルケ」が日本にできれば民主主義が広まる、とか幸せになる、みたいには思っていなくて、日本の内側から必要とされる、「日本の学校であること」が大事だっていうゆうきさんの言葉が印象的だった。

ゆうきさんはフォルケを「多様な人が出合って共に生きる場」として理解してるなって思っていて、それって核家族化とか近所との繋がりが薄れている日本の社会でもすごく必要なことのような気がするんだよね。だって直接の繋がりは薄れても、社会にはいろんな人がいることには変わりないし、一緒に生きていかないといけないじゃん、だから何らかの形でいろんな人との関りをつくるって大事だなって思った。
多様性も意識してるけど、それと同時に、自分がどういう人間で、何を大事にしてるのか、みたいな自分を知ることも大事にしてるよね。自分のことを考えてるからこそ多様性の文脈が生まれるのかなと思った。
自分を大切にできないと他人も大切にできないみたいなね
他人を理解して自分を理解するのか、自分を理解して他人を理解するのか…どっちなんだろう?ゆうきさんの原体験的には、フォルケの生徒だった時に自分を考える時間ができたことがきっかけに多様性への理解が生まれたっぽかったよね。自分を考えれば他人のことを考える余裕も生まれるし理解も進むのかな。
相互作用みたいな感じなんだろうね。どっちもありそう。

今までのゆうきさんについての記事から理解してたゆうきさんのフォルケへの考えの理解は、「仕事に疲れたなら、休んで自分を見つめる機会をつくったらいい」っていう矢印だったけど、今日の話から「疲れた人・悩んだ人が、自分を理解・多様性を理解する」ことが目的で、そのために「穏やかな時間を持つこと」を必要な要素とし捉えてるんだっていうのは今日のインタビューを通してゆうきさんの考え方への理解が変わったかな。
日本にフォルケ(的な空間)をつくるっていうのはどう思った?わたしは先生をどうするか、誰がするのかっていうのが課題だなって思ったかな。
 特に日本って、先生ってめっちゃ「先生」じゃん、科目を教える人、生徒に何かを教える人っていう認識が強い気がして。それに、何かあったとき、教えちゃえば早いし簡単だから「これはこうだよ」って教えたくなっちゃうじゃん。そういう中で「自ら学ぶ場を提供する先生をつくる」ことって難しいだろうなって思った。
そうだね、ゆうきさんが言ってた靴を選ぶ時の話(*)おもしろかったね。
(*)幼稚園で雨の日に外に出かける時に、親・先生が子供に対してなんという言葉をかけるのか。
「雨が降ってるから長靴を履きなさい」と言うのか、「外は雨が降ってるね、じゃあ何を履いてったらいいかな」と言うのかで、同じ状況から子供が考えたり学びとるものが変わる、という例
同じ状況においても、どう質問するかによって相手が考えることとか、何を学べるのか変わるっていうのはすごいなるほどなって思った。たしかに、そういうことを意識して実行できる先生を育てるのって難しそうだね。
それプラス、デンマークのフォルケでは生徒たちが「わたしこれやりたい、みんなでこれやろうよ!」ってなるんだけど、日本でやってもなかなかならない気がする。なる必要も無いのかもしれないけど。先生が教えないけど生徒が自発的にやるっていう空間をどうやってつくるかって難しそうだな。 体でフォルケを理解するっていうのも、フォルケって3日とか、1週間みたいな単位じゃなくて、数カ月とか長期で過ごさないと理解できない気がするから、難しそう。
デンマークのフォルケに行けば分かる、っていう話でも無いしね。
フォルケから学ぶものとか、フォルケという場所への理解も人によって違うだろうしね。それが共通している人じゃないと同じ学校を運営でき無さそう。
あとは、フォルケってカリキュラムがあったらフォルケじゃないと思うんだよね。だから、100校あったら100通りのフォルケができるというか。カリキュラムが無い学校をやるっておおらかさが必要な気がする。
たしかに。フォルケにいて、もっと体系づけて説明してほしいって思ってた。体系が無いのは「デンマークだからか」って納得してたけど、もし日本でやるなら私が感じたみたいな違和感に対して納得する材料も少なくなるよね。
フォルケの先生として必要なのは、フォルケを体をもって理解してることとファシリテーション力の両立なのかな
それと、プライドの低さというか、生徒たちと打ち解けられる人であることも必要かな。生徒に尊敬されたい人とかは向いて無さそう。ゆうきさんも、生徒にからかわれ出したら「よしっ」って思うっていってたじゃん。
私がフォルケに行ってて思うのは、フォルケの先生は大義を持ってなきゃいけない気がする。つくりたい社会の未来像があったり、どういう世界にしたい、みたいなもの。
カリキュラムが無くていろんなことをするからこそ、先生自身のどこかに軸があることが必要なのかもね。
じゃあそういうのって結局自分のこととか、自分の関心ごとがどこにあるのかが分かってないとできないよね。

「フォルケホイスコーレ」ってどんな場なんだろう?

実際にゆうきさんを見て、フォルケの先生についてどう思った?
まずは距離が近いなって思った。学校の先生ってよりは、近所に住んでる年上のお兄さんとかに近いのかも。プロじゃなくて、一緒に学ぶと楽しいとか、その人が持っている何かを教えてほしい、みたいな。ハードルが低くて、自分もやってみたいと思いやすい感じ。
二人はフォルケに通ってないけど、フォルケ行ってみたいと思う?
うーん、どうだろう。例えば、ゆうきさんの理解みたいに、フォルケが人間関係を学んだり、自分を知る、多様性を理解する場だとしたら、そういうものってフォルケを通じてしか得られないものでは無いだろうなっていうのは思うんだよね。今私が通ってるコペンハーゲン大学でもそういうことをすごく感じるし、デンマークとか、留学をしてすらなくても、日本でもそういうことを考えてる人とか、そういう場はあるんじゃないかな。多様性の理解は、フォルケでしか得られないものでは無さそうって思うな。
ただ、多様性に気づかせる仕掛けを多くを用意してるっていうのがフォルケの強みなんじゃないかな。日本人コミュニティに浸かって留学を何気なく終わらせることとか、日本で多様性に無自覚に生きることはすごく簡単じゃん、でもフォルケで多様性に無自覚でいることはものすごく難しい気がしてる。だから、多様性に気づく場としては有効なんだろうなって思う。
たしかに、自分のこととか他人のこととか考えずにはいられない、無視できないっていうのは感じる。普通に大学に通ってたらこの子とは合わないだろうなっていう子たちと関わらざるを得ないっていうのはあるよね。
それが共同生活という仕掛けだよね。
そういう問題意識を持って他の場所でも生きられれば、たしかにフォルケは必要無いのかもしれない。
人生に迷ってたり、自分を見つめなおしたいとか、それが目的ならフォルケは良い場な気がする。私はそれが主目的では無かったからフォルケじゃなくてもよかったのかなと思うけど、フォルケ自体は魅力的な場だと思うな。
フォルケによっても特色が違うし、フォルケを選ぶかどうかも、どのフォルケを選ぶのかも、結局は目的次第だね。
そういうフォルケが国に助成されてるっていうのところに私はデンマーク社会を感じるんだよね。国が人としての成長を大切だと思っていて、そういう場が必要だと思って支援してるわけじゃん。その人が必要とするときに、人として成長できる場に行けるようにサポートしてるていうのは面白いなって思う。
たしかに、デンマークにフォルケがある意義として、それはおもしろいかも。

日本人は自分の意見を持っていない?それって良いこと?悪いこと…?

今日のゆうきさんの話の中で、「日本人って味が無いよね」って話になったよね。それってつまり「自分の意見を持ってないよね」っていうのと同義なのかな?でも、それが日本人の良いところでもあるよねって話にもなってたし。うーん、難しいよね。
味が無いってどういうことだろう?その人のこと噛み砕きたいと思うかどうか?
じゃあ、相手が日本人よりもデンマーク人の方が噛み砕きたいと思うのかな?
意見を持ってるって面ではデンマーク人の方がひとりひとりと話してみる面白さはあるかもね。10人いて、10人とも何か言ってくれそう、みたいな。やったことないから分からないけど。
たしかに、自分の中に答えがある人がデンマークの方が多そうだね。日本人も、意見を持っていても、それをうまく引っぱり出せる人が少ないのかな。
でも結局それって訓練だよね。つまりは教育が大事ってことになるのかな

じゃあ教育の文脈でいえば、フォルケが日本にできても全員が通うわけでは無いじゃん。日本人に意見を持ってほしいって思っている身としては、国民全員が受ける教育でカバーしてほしいって思わない?
でも、いきなり国が教育を変えるって、難しいし、あんまり期待できない気がするな。自分の意見を持つことが必要だって国民が思ってるって国に理解されないときっと変わらないじゃん。
自分の意見を持つことが必要とされてないんだろうなって今は思われてるよね。
始めは義務教育じゃなくて、例えばフォルケをきっかけに自分の意見を持つことが必要だと思う人がちょっとずつ増えて、そういう認識が増えていけば、国の教育もそういう方向に舵を切るかもしれないよ。
フォルケをつくったり、自分の意見を持てる、っていう社会は150年前からデンマークが作りあげてきたものじゃん、だから短期的にできるものではないよね。


おわりに

自分と向き合い、そして多様な他者との関りの中で生きることを体感する時間と空間を兼ね備えるのがフォルケホイスコーレなのかもしれません。「民主主義の学校」とも言われるフォルケホイスコーレも、150年の時を経て、少しずつ今のデンマーク社会の一部を形作っているのでしょう。教育は一朝一夕にはその答えを教えてくれません。目先の利益や需要にとらわれず、長期的な展望で日本の教育のあり方も考えていきたいですね。