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わたしたちが北欧で見たこと、感じたこと、そして、語りたいこと。
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【エッセイ】それぞれの正義が語るもの―ヴァイキングの歴史から感じたこと―

高校生のころ、好きな科目No.1、2を争ったのが世界史と地理でした。愛用していた付箋でいっぱいの分厚い世界史資料集と、書き込みだらけの大好きな地理の地図帳を、重いからと留学先に持ってこなかったことをずっと後悔しています。

世界史や地理を勉強しながら世界地図を眺め、行ったことのない地域のことを知るにつれて、私の頭の中にあるぼやっとしていた世界地図が鮮やかな彩を帯びて鮮明になっていく感覚が好きでした。たぶんこれは、私が旅が好きな理由とも共通しています。実際に訪れて、歩いて、人と会って、五感をフルに使ってその地を私の地図に刻むんです。

話がちょっと逸れました。

歴史は、今の世界を見るためのひとつの視点を与えてくれると思っています。過去があって今がある。現在問題になっていることは、決して突然湧き上がってきたわけじゃなくて、実は過去と深く関連している。過去を否定したり歪めたりせず、きちんと見つめることが大事なんだなって思います。だけど一方で、過去の見方は人によって違いがあって、「絶対」の過去なんてきっと無い。

そんなふうに改めて思わされた出来事があったので、残しておこうと思いました。(あ、ちなみに私、歴史学者ではありませんのでお手柔らかに。)

Histoire 

フランス語で「歴史」。同じ単語が「物語」も意味します。

私も歴史を勉強するときは因果関係など、ストーリーを意識していました。そのほうが納得するし、面白い。歴史は単語の暗記科目だなんてよく言うけど、私はざっくりとストーリーをとらえながら枝葉の単語を覚えることが好きでした。

歴史はストーリーです。

でも、だからこそ気をつけないといけないと思うことがあります。
歴史は、自らの口を持っていないこと。
語られてはじめて、歴史になること。
語られ続けるから、残ること。


これらのことから言いたいことが2つあります。
一つは、「ひとつの同じ出来事についても、立場が違えば語られ方も違う」ということ。もう一つは「人が語り継ぎ続けないと、歴史は残らない」ということ。

①それぞれの歴史認識

ひとつの同じ出来事についても、立場が違えば語られ方も違う。当たり前といえば当たり前ですよね。

ヴァイキングって、一度は聞いたことがあると思います。
9世紀ごろ、よく遊園地にある細長い船みたいなのに乗って、海を荒らしまわり、川を下って内陸まで侵入し、略奪行為をはたらいていた、野蛮な人たちなイメージ。

でもこれって、侵入された側の語り方ですよね。

大部分がヴァイキングに支配されていたイギリスで、最終的にヴァイキングを退けたのがアルフレッド大王でした。その時代に書かれたイギリスの歴史書が、この一般的な「野蛮なヴァイキング」という認識の起源になっているそうです。

ヴァイキングは、デンマークやノルウェーあたりの人たちです。
デンマークの歴史を扱った博物館をいくつか訪れていて感じたのは、ヴァイキングがポジティブな文脈で語られているということ。おそらくヴァイキングの歴史に少なからず誇りを持っていること。

力強い描写や、略奪だけでなく、その優れた航海技術からイギリスにアイルランド、グリーンランドやアイスランド、はたまたコロンブスの500年ほど前に北米にまでたどり着いていたことが(誇らしげに)語られていました。(ちなみに、海だけではなく川を遡ってロシアやトルコのイスタンブールにまで侵入していたのも、個人的にはびっくりしました。)
ヴァイキングの絵(or再現写真)――「誇り高き」って印象を受ける




イギリスによるヴァイキングの描写と、デンマークによるヴァイキングの描写では与える印象は全然違います。だけど、どちらかが間違っているわけではありません。語っている立場が違うだけで、きっと、どちらも正しいんです。



そんなことを考えていた時に、歴史を専攻し、これから高校の歴史の先生になるデンマークの子と話す機会がありました。

かねてからずっと気になっていた、「デンマーク人から見てヴァイキングの歴史ってどう思ってるの?」という質問もしてみたところ、

「少なくとも学校で『ヴァイキング万歳!』みたいな習い方はしないよ(ありがたいことに)。でも、もちろん中には(特にお年寄り世代で)ヴァイキングの血を誇らしげに語る人とかも見かけるかな。」

と教えてくれました。立場の違いから歴史認識も変わるよね、という上記の話もしてみたところ、すごく共感してくれる部分があって嬉しかったです。

「もちろんヴァイキングはイギリスを侵略していたけど、ヴァイキングを駆逐したイギリス王がヴァイキングに対してやったことだって、あまり知られていないけどジェノサイドって言われているんだ。」と言っていました。

まさに、ある人のヒーローは、別の人にとっての悪者ってことなんだろうな。



しばしば国家や地域間で歴史認識の違いは問題になります。自分たちの方が正しくて、相手の認識は大げさだ、間違ってる、とか、被害妄想だ、とか。でも、きっと多くの場合、どっちかが正しいわけじゃなくて、どっちも正しいんじゃないかな。否定し合ってちゃ何も進まない。求めるべきは、存在するはずもない「正解」ではなくて「対話」なんじゃないかと思います。

また、「歴史」はすべてをカバーできません。完全な歴史なんてきっとありません。「歴史として語られなかった出来事」もあるからです。

私が勉強してきた高校の世界史も、「誰かが誰かの立場から語ってきたひとつの歴史認識の集積」でしかないのです。教科書に載っていたことだけが唯一の歴史じゃない、別の解釈をした歴史や、語られなかった歴史もあるということを、心に留めておかないといけないなと思います。

②語り継ぐこと

たとえ歴史が主観的なストーリーだとしても、歴史から学ぶべきことは多いと思います。中立たり得ないからこそ、様々な視点からの歴史がきちんと将来に伝わっていくことが大切なのかなと思います。

歴史は、人に語られ、語り継がれないと存在しません。語られなかったものは残らないし、語られ続けないと風化します。



そんなことを強く感じたのが、先日、ポーランドのアウシュヴィッツを訪れた時でした。

不思議な感覚でした。実際にその他を訪れるまでは、もっと、その場の雰囲気や空気感から、暗い歴史が伝わってくるんだろうなと思っていました。

でも、違いました。私の感受性が乏しかったからかもしれませんが、その土地や建物はそれだけでは何も語らないんだと感じました。むしろ、自分が立っているこの地がアウシュヴィッツであることすら信じがたかった。

私に語りかけてきたのは、人の言葉、文字、絵、写真でした。それらがあるからこそ、土地や建物や、遺された物のことを解釈することができたように感じました。


そこに、後から意味付けができてしまう、歴史の少しの危うさを感じます。

逆に、歴史は、消そうと思えば簡単に恣意的に消せてしまうのかもしれない、とも思いました。はじめから敢えて残さないことによって、あるいは、徐々に徐々に、人々の記憶から消していくことによって。



解釈の違いが生まれること、そのどちらもきっと間違っていないということを①で言いました。区別するのが難しいけど、「解釈の違い」と「出来事そのものの否定」は違うと思います。火のない所に煙は立たぬ。解釈の違いは生じて当然だけど、「あったことをなかったことにする」にするのは、許してはいけない気がします。

忘れてはならない過去は、たとえそれが出来事の一つの解釈だとしても、語り継ぐこと自体にきっと意義がある。そうし続けないと、どんな出来事も消えてしまうから。

伝えるのには、時にものすごくエネルギーがいる。でも絶対に必要で、大事なことなんだろうなと思います。

歴史が不完全なものだからこそ、そのストーリーの受け手は、他の解釈があり得ることを心に留めておくこと、その上で自分の解釈をすることが大事なのかもしれません。


と同時に、これって何も歴史認識に限った話じゃないのかも、と気づきました。何事に関しても、人それぞれの立場や考えがある。守りたいものが違う。誰もが「自分の正義」をもって生きている。だから、あなたの正義と私の正義は違うかもしれない。

「ひとつの絶対に正しい正義」なんて、きっと存在しない。
すごく難しいことだろうけど、正義の違いを超えて「対話」のできる、そんな人になりたいな。