わたしが生きたい社会ってどんなだろう?
そのヒントは、北欧にあるかもしれない。

わたしたちが北欧で見たこと、感じたこと、そして、語りたいこと。
大学生たちが現地よりお届けします。

個人の自由と集団への責任−授業には、出席すべきなのか?−

フォルケホイスコーレ生活が終わり、日本に帰ってきて1ヶ月が経とうとしています。デンマークでの6ヶ月を振り返ると、いろいろな思い出が蘇ってきます。その思い出を、ゆっくりこのブログに書き残していこうと思います。その第一弾として、今回は授業という観点からみる「個人の自由と集団への責任」について。フォルケホイスコーレでの6ヶ月間常にぐるぐると感じていたこと、ただ明確なは未だ出ていない、そんな考察記事です。

「学校」は、行かなければならないものなのか?

この疑問の出発点は、よく授業を欠席するクラスメイト達の存在です。1人ではありません。あるときは旅行、あるときは仕事、あるときは無断…。なぜクラスメイトが教室に揃わないのか、なぜ彼らは授業にきちんとでないのか、フラストレーションが溜まっていました。なぜ私はフラストレーションを覚えたのか。それを整理していきます。この記事で語る「学校」は、フォルケホイスコーレです。

まず、私は、基本的に「学校は行くものだ」と思っています。なぜなら、学校は、生徒がいないと成立しないからです。先生から何かを学ぶのではなく、同じ空間に人が存在し、影響を与えあい、学びを深める場所と思っています。この認識が正しいか正しくないかは置いておいて、私の中にあるこの考え方はフラストレーションを発生させる一つの原因です。

ではそもそも、「学校」とは、なんでしょうか。大辞林では以下のように説明されています。
 一定の場所に設けられた施設に、児童・生徒・学生を集めて、教師が計画的・継続的に教育を行う機関。学校教育法では、小学校・中学校・高等学校・中等教育学校・大学・高等専門学校・盲学校・聾学校・養護学校および幼稚園を学校とし、ほかに専修学校・各種学校を規定する。 → 大学校
 転じて、広く学びの場をいう。


フォルケホイスコーレとは

ここで考えたい「学校」とは、「フォルケホイスコーレ」です。デンマーク全土・世界中から「行きたい」と集まった生徒が共に生活する全寮制の学校です。(詳しくはこちら
簡単にフォルケの特徴をまとめると、
・試験も成績もない
・民主主義的思考を育てる場
・知の欲求を満たす場
ということになります。(IFASより)
つまりこの学校・授業に「出席する」ということを考えたいとき、
  • 成績・試験がない中で、出席への強制力やメリットはどこにあるのか
  • 「文化」や「その人」によって、許容範囲が異なるのはなぜなのか
  • 学校への目的・モチベーションが異なる中で、何を尊重すべきなのか
という以上の3点を考えることが重要です。この3点を考えていく中で、「個人の自由と集団への責任」という問題が浮上するのです。


出席への強制力のなさ、出席へのメリットはどこにあるのか?

1つ目は、フォルケホイスコーレ特有の「成績・出席」への強制力のなさについて。
基本的に日本の学校は、成績評価があります。ほとんどの中学・高校・大学でテスト、またはそれに代わるレポートなどの評価があります。これは進学に影響を及ぼします。または出席日数といった目安があり、これらによって「学校は行かなければならない場所」というある一定の強制力が行使されていると考えられるでしょう。

つまり、日本の学校教育の中で出席することに対するメリットの一部分は、成績や出席日数などによる評価という外的動機によって担保されていたということになります。

もちろん、勉学に対する評価だけが学校ではありません。「この授業が好き」「先生が好き」「仲間が好き」「部活が楽しい」という内的動機もあるでしょう。先生方は、この内的動機を高めるために授業内容を工夫したりしているのかなとも思います。さらに大学では、各自が自分の好きな授業を選ぶことができ、行きたくない授業は取らなければよく、大人数で授業を受けることも多いため、他人が出席しているかどうかはあまり気になりません。

フォルケでは、この外的動機の少なさの中で、内的動機をどう保つかということが重要になります。前提として、フォルケには入学金が必要です。デンマークは一般的に、大学卒業するまで教育費はかかりません。むしろ、大学生にはSUという奨学金のようなものが付与されます。つまり、フォルケに通う生徒は皆「お金を払う」という行為をしています。なんなら、「高い」とさえ思っている。学校にお金を払うという行為には、「この学校に来たい」という内的動機が多少なりとも現れてます。

一方私たち日本人は、これまでの教育の中で外的動機を重視されてきたのではないでしょうか。相対評価の中で生きてきたからこそ、フォルケに来たときに戸惑いやすい。例えば、何か自分が力を入れて取り組んだものがあったとして、一方他人はそこまで力を入れていなかった。しかしそれぞれの結果に対し、先生はどちらも「perfect!」というのです。私はとても戸惑いました。自分の頑張りは他人のそれほどと同等の評価でしかないのか…と。

しかしこの私の戸惑いは、フォルケの中ではお門違いです。なぜなら、私は評価されたくて頑張ったのではなく、「私がそうしたかったから」頑張ったと捉えられるからです。自分の行動に対する動機がどこにあるのか、それは外的動機なのか内的動機なのかをまずは見極めることが重要です。そしてその自分の内的動機に目を向けたとき、他人の行動が気になる動機はどこにあるのか、その行動が外的動機に基づくものだったら、自分の「気になる」は外的動機を気にする自分の価値観を反映している・押し付けてしまっているということになります。

「文化だから」や「その人だから」という理由で、許容範囲は異なるのか?

授業に出ない・遅刻する…一歩日本から外に出ると、その認識の文化の違いに驚くことがよくあります。
でもそれって、「文化だから」という理由で片付けられるものなのでしょうか?
同じ国籍でもそれぞれ性格が違うように、「文化だから」という理由で認識してしまうと、その人自身を理解することを放棄しているように聞こえます。

では、「この子だから」というのはどうなのでしょうか。
この子はいい子だから許してしまう、みたいなものって必ずありますよね。同じ行為でも、人によって許されない・許されてしまうという境界ができてしまうのはなぜでしょうか?ここが、非常に難しいところだと感じています。人は同じ基準で誰かを判断することはできないし、もし判断するとしたら、それは外的動機に依存せざるを得ず、内的動機を大事にしているフォルケの枠組みとは異なってしまいます。

「なんでAさんはいいのに、Bさんはダメなの?」この質問の答えを、明確に答えられるでしょうか。「文化」と答えるのは逃げているようで、ここに、日頃の人間性の重要さを感じてしまいます。外発的な基準によって社会的な正しさを計る社会において、その外発的な基準がなければ感情という曖昧なものでお互いを判断せざるを得ません。いつもちゃんとしてるから、今回くらいは…とか、この前私に優しくしてくれたし…とか、そういう曖昧な判断をしてしまうときもあります。日頃の行いや人間性はもちろん重要ですが、それに判断軸が置かれてしまうのは違うなあ、とも思います。

もちろん人は完璧に生きられず、常にどこかに欠点や矛盾がありながら生活しています。その中で、どこまで許し合い・認め合うか。この点においては、理論的に結論を下すのが難しそうです。

学校への目的・モチベーションが異なる中で、「個人の自由」はどこまで尊重されるのか?

授業に出る・出ないの話し合いを重ねる中で、最も重要になるのは個人の自由と集団への責任のバランスです。フォルケに来る生徒の目的は本当に様々。「デンマークに住みたい」という人もいれば、「英語の勉強がしたい」「デンマークのことを知りたい」「異国で新しい価値観を学びたい」…人それぞれに、それぞれの目的があります。これは素晴らしいことなのですが、これがまた厄介な問題でもあります。

そのポイントは、その人の最大の目的を叶えるためなら、他の人の最大の目的は犠牲になってもいいのか?ということです。よくわからなくなりましたね。

簡単に「フォルケに来た目的はデンマーク人の彼氏をゲットして、デンマークに住むビザを手に入れること」というAさんと、「フォルケのこの授業に興味があって、いろいろな人の意見を聞きたい」というBさんがいたとします。
Aさんが目的のデンマーク人の彼氏をゲットした場合、授業にでる必要性はなくなります。さらに、この目的を達成するためには授業に出れないという場合もあるでしょう。その場合、「個人の自由」という理由でAさんは授業に出席しないことを選択し、これは批判されるものではありません。
一方、Bさんのことを考えるとどうでしょう。Aさんが出席しないことで、Bさんの最大の目的は達成されません。もしかしたら、Bさんの人生に大きな影響を及ぼすかもしれないAさんの考えを聞くことができないからです。ただ、このBさんの目的も「個人の自由」でしかないのです。Bさんの「個人の自由」を達成させるために、Aさんの「個人の自由」を犠牲にすることは強制できません。

さらにこのAさんの行動は、AさんとBさん間では完結しません。そこには、「集団への責任」という問題が生じます。なぜなら、Aさんの行動は他のCさん、Dさん、Eさん…に影響を及ぼします。Bさんの行動も同様です。Aさんだけ欠席を許され、その時点では1人の欠席だったとしても、次の日5人が欠席していた場合、Aさんは「ただ個人の自由を選択しただけ」と言えるのでしょうか。集団の中で存在する個人には、それぞれに集団に対する責任が問われています。

この「集団への責任」とはなにか。これはマイケル・サンデルの言葉を借りましょう。
彼の著書『これからの正義の話をしよう』では、連帯の責務という言葉が出てきます。

サンデルは、「自由の概念には欠陥がある」という。人間には、リベラル派が認める自然的義務と自発的義務以外に、「連帯の責務」があると考える。人間は生まれながらにして重荷を負った自己であり、自ら望まない道徳的欲求を受け入れる存在であると考えなくてはいけない。我々は家族や国家といったコミュニティにおいて、忠誠心や一体感という絆で同胞と結ばれている。そしてそのようなつながりから生まれる義務は確かに存在する。つまり我々は自らの身に対して責任を負う自由な自己であるとは言えず、連帯の責務を負ったコミュニティの一員でもあるのである。コミュニティの一員として連帯の負うならば、何が公平かを考える際に「コミュニティにとっての善」を考慮しない訳にはいかない。
 私はこの考えを結構推しています。どれだけ当人が「自由」を主張しても、人間はどこかのコミュニティの所属から解放される事はできません。主張した「自由」はただ本人だけに適応されればいいというものではない、と。属するコミュニティに対する義務感や責任というものはは多かれ少なかれ存在し、認めなければならないものなのではないでしょうか。 個人は、そこを理解した上で「個人の自由」を求めることが重要だと思います。
ただ、コミュニティがその中での責任において「個人の自由」を侵害していいというものではありません。互いに考慮していかなければならないと思います。

書いていて、嵐の休止会見を思い出しました。
櫻井くんは、会見で「誰か一人の思いで嵐の将来を決めるのは難しいと思うと同時に、他の何人かの思いで誰か一人の人生を縛ることもできないと。」と発言していました。そういうことなんですね…。
天気のいい日は外で授業。


まとめ

論理的に考えようと試みてみましたが、「単にその人が授業にいなかったら私が寂しい」という感情論も多々含みます。

この、「個人の自由と集団への責任」という問題はなにも学校の中だけの問題ではありません。人が人と生活する中で、社会の中で生きていく上で常に考えていかなければならない問題です。誰かの個人の自由を尊重することは、誰かの個人の自由を犠牲にすることにもなるし、集団への責任を絶対的なものとして押し付ければ、それも誰かの個人の自由を犠牲にさせることになるでしょう。これが、社会の難しいところです。

この「どこまでが個人の自由であり、どこまでが集団への責任なのか」というバランスの問題は解決し得ないでしょう。なぜなら、その組織や集団によってバランスは異なるからです。ある一つのところで通用したバランスも、他の組織では通用しない。それぞれの場所で、それぞれに最適なバランスを図っていくことが重要になります。
だから、「こうすべき」というものは存在し得ないのです。ただ、個人の自由が行き過ぎればそれは個人のわがままになり、一方で集団への責任が強すぎればそれは個人を縛ることになり、誰のためにもなりません。

だからこそ、対話が重要になるのでしょうか。ただそれぞれにフラストレーションを溜めるのではなく、対話し、理解をしようとトライする。そう簡単に最終地点までは達成し得ないけど、トライすることはできるのかもしれません。

デンマーク社会は、この「個人と集団」のバランスのとり方がすごく上手いと思っています。個人が個人として最大限尊重されているというか。これには様々な理由があると思いますが、この話はまた今度。